
今朝のこと。
家族で朝食を摂っているいる時に、小学校4年生の娘が作文集を出してきました。
この作文集は、学校の授業で自分が書いた作文を纏めて綴じたものです。
これを生徒一人ひとりが自分で表紙をつけて、記念に持ち帰るといったものです。
その作文集を娘から手渡された私は、「どれどれ・・・」と見てみました。
ほう、表紙に書いてある絵は、私の描く絵にそっくりだな。
ちゃんと見て、真似して練習したんだ。
と、思いながら、最初の1ページをめくってみました。
そこには読書感想文があったのですが、「ふむふむ・・・」と読んでみると、最初のほうに以下の一文がありました。
「この本は、7回読みました。それは、読むたびに感想が変わるからです。」なるほど。
ものの見方や理解の仕方は、その人のレベルによって変わってくるといいますが、それを端的に表している言葉だと思い感心したものでした。
私自身も、10年前に読んだ本を今更ながら読み返してみると、そこには初めてその本を読んだかのように、次々と新しい発見があるのに驚いているところですから。
ものの見方というのは、例えば人によっては立っている位置によって「点」に見えるけれども、別の人には「円」に見えることもあります。
ところが触ってみると、実は「球」であることがわかります。
しかし、実際に触らないで「ものの見方を変えたつもり」になって、あらゆる角度から見たとしても、「円」にしか見えない人には「円」でしかないわけです。
どの角度から球を見ても、立体が理解できなければ「円」にしか見えないからです。
これを実際に「球」であることを発見するには、実感としてわかるまで触ることだと思います。
読書もどこか共通するところがあって、読んだだけでは「点」や「円」にしか見えず、本当に意味しているところというのが読み取れないもののように感じています。
読むほどに自分の体験と重ね、他の書物に書かれていることや他人の体験談などを組み合わせて考えながら読みしだいていかないと、「球」のような「本質」には到底たどり着けないということを私は痛いほど感じています。
小さな娘が「
感想が変わってくる」と言ったことは、それだけその間に考え、成長しているということなのでしょう。
帰宅の遅い私が悪いのでしょうが、朝食は唯一我が家が毎日揃って顔を合わせる貴重な時間なのです。
従いまして多少早起きをして、朝食に時間的な余裕を持つことによって、精神的にも余裕が生まれ家族との語らいを通じて子育てにも関与することができているものと思っています。
このため、娘の作文集の中に小さく現れているキーワードを発見し、それを成長と認め、その成長が何を意味するのかを娘に教られたわけです。
もっとも、私は面倒くさがり屋ですし、おまけに不器用なので、家事はぜんぜんやりません。
釘一本、かなづち一つ持ちません。
炊事洗濯どころか、布団の上げ下ろしさえも自分ではしません。
自分の着る服も、タンスのどこに入っているかもわかりません。
さすがに顔くらいは、自分で洗いますけどね。
つまり私は、家事には全く手を出さない人なんです。
帰宅しても夜が遅いため、娘が寝ています。せいぜい家内の話を聞いたり読書をしているくらいのものです。
ただ、朝の時間くらいは娘も起きていますので、父親として家族の話を聞いたり、顔色や態度・しぐさから出る何らかの兆候をつかみながら訓示めいたアドバイスをしてみたり、必要なら家庭における決裁もする時間にしています。
この朝の時間が、私が家庭で父親としていられる所以(ゆえん)の1つになっているのだと思っております。
この先、我が家の貴重な朝の時間に役に立たないような父親になったら、だんだんと私も炊事洗濯や日曜大工、家内や娘の送り迎えなどなど、家事を始めないとならなくなってしまいます。
それは、我が家において、父親がその地位から失墜することを意味するからです。
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こんにちは!石井です。
>朝食は唯一我が家が毎日揃って顔を合わせる貴重な時間
なるほどー。でもこれってけっこうユニークそうです。
自分の場合は、夕方のお風呂と夕食の時間です。
業種の特性上、そのあとまた会社に戻って、閉店までいることが多いのですが…。
>「この本は、7回読みました。それは、読むたびに感想が変わるからです。」
小学校4年にして、この言葉はすばらしいですね!
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